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「映画術」塩田明彦 (イースト・プレス)

映画に関する本で久しぶりに面白いものに出会った。

映画監督にして脚本家である塩田明彦が「演技と演出の出会う場所から映画を再考する」という視点で,映画美術学校アクターズ・コースの在学生に向けて講義した内容を本にしたもの。

第一回目のテーマは「動線」つまり「人物をどう動かすか」ということ。

取り上げる監督と映画は,

溝口健二「西鶴一代女」
成瀬巳喜男「乱れる」

「越えてはいけない一線」を視覚的に実在させるために,二人の監督はどのように人物を配置し,どのような動線を組むことで「一線」を実在させたのかを解き明かす。

第二回目は「顏」

映画が映画であるための決定的な「顏としか言いようのないものが今ここにある」という感覚。

それを感じるために持ち出したのが,

アルフレッド・ヒッチコック「サイコ」
ジョセフ・ロージー「パリの灯は遠く」
ジョルジュ・フランジュ「顔のない眼」

なかでも「サイコ」におけるアンソニー・パーキンスが演じるノーマン・ベイツの顏,ジャネット・リー扮するマリオンの表情に言及し,映画における顏−物(マテリアル)としての顔が映画に中には潜んでいて,それはどこか「死の予感」と結びついているとする。

第三回目は「視線と表情」

第二回目に引き続き「顏」の話。

D. W. グリフィスの「散り行く花」でのリリアン・ギッシュの微笑み

小津安二郎の「秋刀魚の味」における岩下志麻の,父親に「駄目だったよ」と言われた瞬間の表情

クリント・イーストウッドの「許されざる者」での,イーストウッドがかつての仲間のモーガン・フリーマンを訪ねて「一緒に賞金稼ぎに行かないか」と誘うシーンでの,フリーマンの奥さんの立ち居振る舞い

増村保造の「曾根崎心中」での梶芽衣子の何も見ていない,死しか見ていない演技

ロベール・ブレッソンの「スリ」における,主人公がスリを手を染める場面での視線

を取り上げ,映画では,俳優の顔を舞台に複雑なエモーションが渦巻き,交錯し合い,「戦争状態」にあり,前回の「死」と結びつく顏の対極にある戦争状態の「顏」について述べる。

第四回目のテーマは「動き」

映画とは「なにより動きの創造である」という著者の基本的考えを通して,一つの出来事を捉え,映し出す,この普遍原則を,

リュミエール兄弟「工場の出口」「雪合戦」
ジョニー・トー「ザ・ミッション 非情の掟」
三隅研次「座頭市物語」「大菩薩峠」
内田吐夢「大菩薩峠」
レイモンド・リー「ドラゴン・イン 新龍門客棧」

を例に解説する。

なかでも面白かったのが,「座頭市物語」での三隅研次の天才的な動きの演出を語った部分。

敵対する親分のところに草鞋を脱いでいる市と平手造酒,この二人があるとき出会い友情を交わす。できれば戦いたいと思うものの,やがて二人は戦うことになり,互いに尊敬と友情を持ちながら斬り合う。この二人の心の在りようを,三隅研次は,いかに「動き」だけで表現したかについて,著者の塩田は次のように述べる。

『何が素晴らしいって,市が平手造酒を背負って終わるんです。自分の背中で相手の体が冷えていく様子を,市は動かずに感じ取っている。−中略−これは,座頭市が酒を酌み交わしながら平手造酒に按摩したポーズの反転になっているんです。座頭市が,なんであそこで按摩しなきゃいけなかったか。平手造酒の背中につかまって,市つぁんが肩を揉んでいた動きが最後に正確に反転されるからです。この二つのシーンだけが,この二人の肉体の接触なんですよ。背中を預けることが,ひとつの友情の証でもあるわけですよね。』

第五回目は「古典ハリウッド映画」

フリッツ・ラング「復讐は俺に任せろ」でのグレン・フォードとグロリア・グレアムの演技と,作劇の枠組みほぼ同じなドゥッチオ・テッサリ「ビッグ・ガン」におけるアラン・ドロンとを対比し,演技者が何を思ったのかを映像で表わすことは省略し,何をしたかのみを淡々と映すという,ある意味古典ハリウッド的演出が,より深く演技者の内面,心情を映画を観る物に伝えるのか解明する。

第六回目は「音楽」

「映画と音楽」ではなく「映画が音楽」つまり,「映画ってときどき音楽みたいになるね」ということを,

加藤泰「緋牡丹博徒 花札勝負」での藤純子の仁義を切るシーンでの声と抑揚
森崎東「男はつらいよ フーテンの寅」における渥美清の口調
増村保造「曾根崎心中」での梶芽衣子と宇崎竜童の語り

で明らかにする。

ただひとつ,映画が嫉妬するジャンル,それは音楽。

映画は音楽以外のなにものにも嫉妬していない。現実にすら嫉妬していないと塩田は断言する。

最後の第七回目のテーマは「ジョン・カサヴェテスと神代辰巳」

カエルとサソリの寓話に代表されるキャラクター,シンプルで一貫した行動原理によって登場人物が動いて,その動きを通して,世界を見せていく,それがアメリカ映画基本であったが,カサヴェテスという監督は「性格」ではなく「感情」を主人公にし,人間の感情そのものを描こうとしたという内容。

題材にするのは,ジョン・カサヴェテスの「ミニー&モスコウィッツ」と「こわれゆく女」でのジーナ・ローランズの演技。

しかし,このカサヴェテスの演出は「感情芝居」の流行というよくないものも産み出してしまった。

そこで,著者は言う。

『カサヴェテスは「感情」を「行動」で描いている。「感情」が「動き」ぶ転化していく。「動き」を突き動かしている「感情」がダイナミックに動くので,「動き」そのものもダイナミックに演じられていく。−中略−いずれにせよ彼の内面を覗かなくても,彼の考えていることが外側からおよそ見えてくることが大事なんです。「外側から見える」という行為を積み重ねて,無意識の厚みを作っていくことで,やがて登場人物が捕まえられるようになるんだろう。そう思います。』

ユニークな映画論,演出論,演技論に出会い,刺激を受けました。

映画術

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